60歳からの投資物語 第5章 ひと株のぬくもり

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春の風が、少しずつ温度を取り戻していく。四月の初め、桜がほころび始めた頃、澄子はようやく本調子を取り戻しつつあった。

「この前のスーパー、ちょっと遠かったけど楽しかったわね」

退院後しばらくは外出も控えていたが、最近は章一とふたり、買い物に出かけることも増えてきた。

そんなある日、澄子がふと口にした。

「ねえ、“優待”っていうの? この前テレビでやってたの。お菓子が届いたって話。あれ、どうなの?」

「お、株主優待の話か。最近の主婦は情報が早いな」

章一は笑いながらパソコンを開いた。

「実はな、ちょっとずつ持ってるんだよ。優待銘柄。まだそんなに多くはないけどな」

画面に表示されたのは、いくつかの優待カタログと実績リスト。食品会社やドラッグストアチェーン、生活雑貨メーカーなど、生活に密着した企業ばかりだった。

「これ見てみろよ。先月届いたこの商品券、使えるスーパーがうちの近くにもあるんだ」

「まあ、ほんとにお得なのね。なんだか楽しそう」

「楽しんでなんぼだよ。投資ってのは“金のやりとり”だけじゃなくて、“日々の暮らしにどう役立てるか”が大事なんだって、最近思うようになってきた」

章一はそう言いながら、郵便受けから届いたばかりの小包を手に取った。中身は、先週届いた株主優待——とある食品メーカーからの「スープセット」だった。

「ほら、見てみろ。春野菜のポタージュに、きのこのクリームスープ。これ、前に澄子が好きって言ってたやつに似てるだろ?」

「まあ……うれしいわね。こんなのが届くの? 株って、もっと怖いものかと思ってた」

「最初はオレもそう思ってたさ。でも、今はちょっと違う。ひと株に、気づけばぬくもりがある」

そう言って章一は、小さなスープの箱を食卓に並べる。

それは、数字でしかなかった投資が、“誰かの生活に寄り添う存在”に変わった瞬間だった。

四月中旬、章一は近くのショッピングモールへ、澄子とともに出かけた。目的は、あるアパレル企業の株主優待券を使っての洋服選び。

「久しぶりに洋服なんて買うわね」

「春だからな、気分変えていこうぜ」

選んだのは、淡い水色のカーディガン。

「これ、似合うかな?」

「いいじゃないか。明るくて、澄子にぴったりだよ」

レジで優待券を差し出すと、合計額のうちほとんどが割引され、数百円の支払いで済んだ。

——「なんだか、得した気分ね」

「な? 投資って、こういうところもあるんだ」

買い物帰りに寄ったカフェで、澄子はコーヒーを飲みながら呟いた。

「私、定年したら旅行とかのんびりしたいなって思ってたの。でも今は、こうして身近な幸せを感じることのほうが、ずっと贅沢に思える」

章一は、澄子の言葉を噛みしめるように聞いた。

 「オレもな。若い頃は“もうけること”ばっかり考えてた。定年後にまで、そんな焦りを持ち込むとは思ってなかった。でも、こうして優待でもらったスープで晩飯作って、好きな服を買ってやって……なんか、幸せって意外と小さいところにあるもんなんだな」

「うん。私、思ったの。あなたが株をやってくれてよかった」

章一は、思わずコーヒーを吹きそうになった。

「お、おい、今のもう一回言ってくれよ」

「ふふ。1回きりよ」

笑い合いながら、ふたりの時間は穏やかに過ぎていった。

ある日、優待で届いたお米とレトルトカレーで夕飯を済ませた夜、章一は日記を開いた。

今日届いた優待カレーは、思いのほか美味だった。
澄子も喜んでいた。
株を通じて“生活に還元される幸せ”を初めて感じた日かもしれない。

株価は上下する。でも、優待は残る。
それが日々の支えになる。

老後の投資は、ギャンブルではない。

「生活と、気持ちを、ほんの少し豊かにするためのもの」

章一は、そのことを少しずつ学んでいった。

春が終わり、梅雨の気配が近づく頃、優待の新しいカタログが届いた。中には食品だけでなく、旅館の宿泊券、地元の名産、体験型のプランまで並んでいた。

「おい、澄子。次の優待、ちょっと奮発して温泉でも行くか?」

「……ほんとに? うれしい。でもいいの? 結構、高いんじゃない?」

「いいんだよ。配当もあるしな。それに、こういう楽しみがあるから頑張れるんだ。なあ、オレたち、やっと“老後”らしくなってきたんじゃないか?」

澄子は、ほんの少し涙ぐんだような笑顔でうなずいた。

「そうね。あんたの株、悪くないわ」

章一は確信する。

——小さなひと株が、人生に温度をくれる。
——そのぬくもりが、老後を照らしてくれる。

そう思いながら、彼はまた一歩、投資の奥深さに踏み込んでいった。

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