60歳からの投資物語 第4章 予期せぬ波乱

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年が明けた。静かな元日、章一は例年どおり近くの神社に初詣に出かけた。寒空の下、白い吐息が立ち上る参道を、背筋を伸ばして歩く。

——「今年は昨年以上に、堅実に、着実に」

そんな願いを込めて引いたおみくじは「小吉」。
“驕らず慎ましく歩めば、実りの秋が訪れる”と書かれていた。

「悪くない。むしろ、これくらいがちょうどいいな」

手帳におみくじの一文をメモして、章一は今年の投資目標を立てた。

——年間配当収入を3万円に
——新たに3銘柄を分散購入
——株主優待銘柄にも一部投資

投資を始めて1年。ようやく収支が黒字に転じ、日々の生活にもリズムが生まれていた。

だが、その安定は、思いがけない出来事によってあっけなく揺らぐ。

それは2月のある朝だった。

澄子が突然、胃の痛みを訴えた。食欲がなく、顔色も悪い。数日様子を見たが症状は改善せず、章一は車を走らせて病院へ連れて行った。

診察の結果は、胃潰瘍。すぐに入院が必要だと言われた。

「まさか澄子が……」

家事の中心を担っていた妻が倒れたことで、章一の生活は一変した。毎日病院に通い、洗濯や炊事をこなし、空いた時間に株価をチェックする。投資に割ける時間は激減した。

「お父さん、大丈夫? ちゃんと食べてるの?」

東京に住む娘からのLINEに、章一は「大丈夫、大丈夫」と繰り返し返すが、正直なところ余裕はなかった。

配当重視のポートフォリオにしていたおかげで、大きな値動きには巻き込まれていなかったが、それでも毎朝見る株価がじわじわと下がっているのが気がかりだった。

そんなある日、持ち株のひとつ、食品メーカーA社の株価が突然暴落した。

「なんだこれは……」

朝のニュースで取り上げられていたのは、異物混入によるリコール騒ぎ。SNSで炎上し、信用不安が広がった。

前日に3,100円だった株価が、あっという間に2,400円まで下落。

——損失、12万円。

「こんな……こんなタイミングで……」

章一はパソコンの前で頭を抱えた。澄子の見舞い、家のこと、娘とのやりとり、病院からの書類の山。その上に、この株価下落。

冷静でいるべきなのは分かっていた。だが、現実の不安が冷静さを揺らがせた。

——損切りすべきか、それとも……

迷った末、章一は売却を踏みとどまった。

「自分で選んだ会社だ。こんなときに、手放したくはない」

そう言い聞かせたものの、不安がぬぐえない。投資の恐ろしさは「お金が減ること」ではなく、「信じることが難しくなること」だと、そのとき身に染みた。

数日後、澄子の病室で。

「……ごめんね。私のことばっかりで、あんたも大変だったでしょ」

「何言ってんだよ。夫婦だろ。こういう時こそ支え合うんじゃないか」

「……ふふ。株の方は、大丈夫?」

章一は一瞬たじろいだが、すぐに苦笑いを浮かべた。

「まあ、ちょっとした波乱があってね。でも、投げ出さずに持ってるよ」

「それなら、きっと持ち直すよ。ほら、あんた昔から粘り強かったじゃない」

「……そうだな。定年まで同じ会社にいたくらいだしな」

澄子の笑顔に、章一の胸のつかえが少しだけ取れた気がした。

やがて、A社のリコール対応が真摯だったこと、再発防止策を迅速に講じたことが評価され、徐々に株価は回復傾向を見せ始めた。

章一は売らなかったことを、自分なりに誇りに思った。

投資とは、結局「人を信じること」なのかもしれない。

それを実感した出来事だった。

だが、波乱はそれだけではなかった。

3月初旬、ロシア情勢の緊張が世界市場に暗雲をもたらし、日経平均も連日急落。章一のポートフォリオも全体で7%ほど目減りした。

「まいったな……こういうのは、どうにもできん」

地政学リスクや世界経済の不確実性。年金世代の投資家にとって、最も厄介なのはこの「外的要因」だった。

「でも……それでもやるしかない」

章一はノートにこう書き込んだ。

不確実性の時代だからこそ、確かな判断と経験が必要。
投資は“続けること”が勝ちにつながる。
自分の人生もそうだった。上手くいかない時期を越えて、今がある。

入院していた澄子は、3月末に無事退院した。

「ご迷惑をおかけしました」と、看護師に丁寧に頭を下げる澄子の姿を見て、章一は改めて思った。

「おれは、この人の老後を守るためにも、もう一度、立て直さなきゃならない」

損失の回復ではなく、「信頼を取り戻すこと」が章一の目標になった。

——今度こそ、揺るがないポートフォリオを。

波乱の渦中でも、章一の眼差しは未来を見据えていた。

静かに、しかし確かに、老後の“逆転劇”はその歩みを続けていた。

 

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